初心者でも安心 外国為替基本用語

【為替って?】

為替とは、遠隔地間の決済(お金の受け渡し)を実際の現金を輸送することなく、金融機関(銀行など)の仲介で行うしくみです。例えば、銀行振り込みなども実際のお金が振込銀行から入金銀行に送られているわけではないですよね。この様な決済のしくみが為替です。 外国為替は南側に隣接するヴィジャヤナガル朝と常時抗争状態にあった。というのは、両国の国境地帯のトゥンガバドラー川流域は経済的に豊かな土地として知られ、ゴーダヴァリー川とクリシュナ川の下流平野は、たいへん肥沃な土地であるうえに数多くの港があり、その港を通して外国貿易が取引されていたため、領有した王朝は、その利益で潤うからだった。バフマニー朝のスルタンは、優秀な砲兵隊と機動的な騎馬隊をもってしばしばヴィジャナガル朝を破ったが、決定的な勝利をおさめることはできず、国境線はトゥンガバドラー川流域で維持された。 モンゴルの建てた元朝は14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北京)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が初めて、唯一である。 FXは統一を達成すると外征を抑え、農村の検地や人口の調査を進めて里甲制・衛所制を布き、内政の安定に力を注いだ。一方で洪武帝は功臣を粛清し、宰相にあたる中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる独裁の体制を築いた。 しかし、1398年洪武帝が死ぬと2代皇帝となった孫の建文帝と帝の叔父である洪武帝の子たちの間が不和となり、北京を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男燕王が反乱を起こした(靖難の変)。1402年、燕王は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した。これが永楽帝である。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北京へと移った。 永楽帝は北京に遷都し洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北に退いた元朝の余党(北元、明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テムル・ハーンの王統が断絶していたが、永楽帝は遠征により制圧した。満洲では女真族を服属させて衛所制に組み込むことに成功した。南方ではベトナムを陳朝の内乱に乗じて征服した。 さらに海外の東南アジア、インド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。 FX、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊派遣は中止され、ベトナムでは黎朝が独立した。しかし永楽帝の子洪熙帝、孫宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価される(仁宣の治)。 一方このころ、モンゴル高原では西モンゴルのオイラトが力をつけ、モンゴルを制圧したオイラト族長エセン・ハーンは明へ侵攻してきた。1449年、英宗は側近の宦官王振の薦めでオイラトに親征を行ったが、自ら捕虜となる大敗を喫した(土木の変)。 エセン・ハーンは内紛で殺され危機を免れたが、後に帰還して奪門の変で復位した英宗以来、歴代の皇帝は紫禁城から出ることを好まず、また政治を顧みない皇帝も多く、国勢はしだいに低調となった。 16世紀に入ると倭寇が中国人の密貿易商人と結びついて活動を始め、沿岸部を脅かすようになった(後期倭寇)。さらにモンゴルではクビライの子孫とされるダヤン・ハーンが即位し、オイラトに対抗してモンゴルの再統一を成し遂げた。オルドス地方に分封されたダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンは16世紀中ごろに頻繁に中国に侵入し、1550年には北京を攻囲した(庚戌の変)。 この時代の明を悩ませた倭寇とモンゴルを併称して北虜南倭と呼ぶ。 FX、わずか10歳の万暦帝が即位した。はじめの10年間は内閣大学士張居正が政権を取り、国政の立て直しが計られたが、張居正の死後親政が始まると帝は政治を放棄した。在位は48年に及ぶが、途中日本に攻撃された李氏朝鮮の救援(文禄・慶長の役)などの出費がかさみ、財政が破綻した。このような時局を憂えた人士が無錫の東林書院に結集し東林党という政治集団が作られた。以後、東林党と反東林党の政争が起こる。万暦帝の死後も泰昌帝は即位後まもなく急死し、天啓帝は寵臣の宦官魏忠賢に国政を委ねるなど、政情の混乱が続いた。魏忠賢によって東林書院は閉鎖され、東林党の人士も投獄・殺害された。 天啓帝の7年の治世の後、崇禎帝が即位したときには既に明は末期的症状をきたしていた。さらに即位後まもなく飢饉が起こり、反乱が相次ぎ、更に後金軍の侵攻も激しさを増した。名将袁崇煥が後金軍を防いでいたものの、後金(清)のホンタイジの策略に嵌った崇禎帝が袁崇煥を疑い誅殺してからは後金軍を抑えられなくなり、更に流賊から台頭した李自成は西安に拠って大順を称し、北京に迫った。1644年、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺し、滅亡した。 同年、清が李自成を破って北京を占領し、中国支配を宣言すると、中国南部にいた明の皇族と官僚は南明を建て清に抵抗したが、雲南からビルマに逃げ込んだ永暦帝を最後に滅ぼされた。福建でも鄭成功が台湾を拠点に抵抗したが、鄭氏政権は後に清に降伏している。南明は日本の徳川幕府に何度も援軍の派遣や物資援助を要請している。御三家や薩摩藩は出兵に対して乗り気であったとの記録がある。日本側は清への手前、公式に援助を行なうことが出来ないため鄭氏の交易利権を黙認することによって間接的に援助した。 1724年、明の代王朱彝の孫、朱之lが清の雍正帝より一等延恩侯の爵位を授けられ、以後はその子孫に明の祭祀が引き継がれた。 洪武帝、永楽帝と創業の二人の皇帝がいずれも独裁的な恐怖政治を行ったため、それ以降の明の政治も同じようになった。皇帝の不興を買えばそれまで権勢並ぶものが無かった高位の臣でも即座に死を賜る事が良くあった。明の官吏は常に誅殺におびえ、朝、家族と水杯をし、死を覚悟して出仕し、夕、帰って再び家族と出会えたことに喜んだと言う。このため明の官吏は多く事なかれ主義に走り、明の政治は皇帝の出来不出来に全てがかかってくる事になり、名君の時は果断に善政が進められるが、暗君の時は目も当てられないような悲惨な状況になった。そして明の不幸は、名君の治世は短く(仁宗洪熙帝は一年、宣宗宣徳帝は十年、孝宗弘治帝は十八年)、一方で世宗嘉靖帝は四十五年、神宗万暦帝が在位四十八年というように暗君の治世が長いということにあった。 明代後期より富裕な士大夫層が地方の指導者としての地位を確立し郷紳と言う新しい身分層を形成し始める。彼らは基本的に官僚であり、官僚としての地位とその間に積み上げた財産を持って地方の民衆からの尊敬を集めて指導者として、政府の地方官にすら命令するほどの権力を持った。しかし唐以前の貴族とは違い、血縁を持って財産を保持しているわけではなく、一族の中に科挙に合格するものが長い間出ない場合は没落してしまう事になる。郷紳の事を「一代限りの貴族」と表現する人もいる。後の清代では郷紳層は地方の強い基盤を基に辛亥革命の中で活躍する事になる。 明初の官制はほぼ元制の踏襲であるが、1380年の胡惟庸の獄をきっかけに官制を改めて皇帝独裁体制の確立を図った。 洪武帝は宰相府である中書省を廃止したが、実際に皇帝が一人で全ての政務に当たるのは不可能であり、補佐役として作られた内閣大学士が後には事実上の宰相職となる。 内閣の下に行政機関である六部がある(六部の詳細についてはリンク先を参照)。また官僚の監察機関である御史台の名を改めて都察院とし、軍事の最高機関である枢密院を改めて大都督府とし、更に都督府を中・前・後・左・右に分割して五軍都督府とした。 しかし洪武帝の猜疑心はこれだけでは収まらず、これとは別に皇帝直属の特務機関である錦衣衛を作る。更に永楽帝の時代に宦官の特務機関東廠を創設した。後に東廠に対して西廠も作られるが、こちらはすぐに廃止される。これらの特務機関の存在が明の官界を暗くした。また、明代は官僚の給与が低く、これら諸点から歴代でも最も不遇と言われる。給与を抑制したことは賄賂の横行を招き、官界腐敗の原因となった。